さて、ここで前回の「澱」について、少し深くお話ししたいと思います。
ノンフィルターのワインを扱っていると、瓶の底に白く濁った澱が沈んでいたり、瓶を動かした瞬間に、ふわりと舞い上がったりすることがあります。
初めて見た方は、驚くかもしれません。
「これは何ですか?」
と、お客様から尋ねられることもあります。
そもそも、この澱は一体何なのでしょうか。
ワインの澱には、発酵を終えた酵母の細胞やその残骸、酒石酸塩、タンパク質、多糖類など、さまざまな成分が含まれています。
無濾過のワインでは、生きた酵母や乳酸菌などの微生物が残っている場合もあります。
ただし、澱があるからといって、必ずしも生きた酵母が活動しているわけではありません。
そして、ここで一つ誤解されやすいことがあります。
白く見える澱そのものが、亜硫酸の塊ですか?と言われたことがあります。
ワインに添加された亜硫酸は、主に溶存した状態で存在し、一部はワイン中のほかの成分と結合しています。
ですから、目に見える白い澱を「亜硫酸が固まったもの」と説明することは、正確ではありません。
しかし、亜硫酸と澱は、決して無関係ではないのです。
■ 酵母は、発酵を終えたあともワインに関わっている。
ここからが、私が特に面白いと思うところです。
酵母は葡萄の糖分をアルコールへと変えるだけの存在ではありません。
発酵を終えた酵母は、やがて死滅し、その細胞の一部が時間をかけて分解されていきます。
これを「オートリシス(自己分解)」と呼びます。
この過程では、酵母の細胞壁に由来するマンノプロテインなどの成分や、アミノ酸、ペプチドといった物質がワイン中へ放出されます。
こうした成分は、ワインの口当たりや香味、コロイドの安定性などに影響を与えることがあります。
例えば、澱と接触させながら熟成させる「シュール・リー」という醸造方法。
フランスのロワール地方、ミュスカデなどでも知られる手法です。
澱との接触によって、ワインに厚みや滑らかさ、複雑さが生まれることがあります。
ただし、すべての澱が同じ働きをするわけではありません。
澱の量や性質、熟成期間、温度、酸素との接触状態によって、その影響は異なります。
また、自己分解は一瞬で起こるものではなく、時間をかけて進む現象です。
だからこそ、澱をどの程度残し、どれくらいの期間ワインと接触させるのかも、生産者の大切な選択なのです。
■ 澱は、ワインを酸化から守ることもある。
もう一つ、興味深い働きがあります。
それは、澱と酸素の関係です。
ワインにとって酸素は、必ずしも悪いものではありません。
醸造や熟成の過程で適切に酸素と接触することで、香味が変化し、複雑さが生まれる場合もあります。
一方で、過剰な酸素との接触は、果実の香りを失わせたり、褐変や酸化的な香りを引き起こしたりする原因になります。
ここで、酵母由来の澱が関わってきます。
澱に含まれる酵母細胞やその成分には、条件によって酸素を消費したり、ワインの酸化還元状態に影響を与えたりする働きがあることが知られています。
つまり、澱は単に瓶の底へ沈んでいるだけではなく、ワインの変化に関与することがあるのです。
ただし、澱があれば必ず酸化を防げるというわけではありません。
澱との長期間の接触や酸素の少ない環境によって、反対に還元的な香りが強く現れる場合もあります。
例えば、硫化水素に由来する卵の腐ったような香りや、特定の硫黄化合物による独特の香り。
これらは、ワインの魅力を損なうこともあります。
酸化を抑えることと、還元的な状態を強めすぎないこと。
その微妙なバランスも、醸造の難しさであり、面白さなのだと思います。
■ 亜硫酸と澱は、どのように関わっているのでしょうか。
では、今回のもう一つの主役である亜硫酸との関係を考えてみましょう。
ワイン中の亜硫酸は、大きく分けると「遊離型」と「結合型」に分けられます。
遊離型の亜硫酸は、ワインの酸化を抑えたり、微生物の活動を制御したりするうえで重要な役割を持っています。
一方、結合型の亜硫酸は、アセトアルデヒドなど、ワイン中のさまざまな成分と結びついた状態で存在しています。
ここで重要なのは、亜硫酸を添加した量と、実際にワインを保護するために働いている量は、必ずしも同じではないということです。
また、亜硫酸の抗菌作用は、ワインのpHによっても変わります。
同じ量の亜硫酸を添加しても、pHが異なれば、その働き方も変わるのです。
そして、澱との関係も単純ではありません。
澱に含まれる酵母由来の成分や、ワイン中で進む化学反応は、亜硫酸の結合状態や酸化還元環境に間接的に影響することがあります。
さらに、澱との接触によって酸素の消費や酸化還元状態が変われば、ワインに必要な亜硫酸の量を考えるうえでも無視できません。
ただし、澱が亜硫酸の代わりを完全に果たすわけではありません。
亜硫酸には、酸化に関わる反応を抑える働きだけでなく、微生物を制御するという重要な役割もあるからです。
ここで私が伝えたいのは、
亜硫酸の添加量だけを見ても、そのワインがどのような状態にあるのかは判断できない。
ということです。
葡萄の健全性。
ワインのpH。
発酵の状態。
酸素との接触。
微生物の活動。
そして、澱との関係。
それらが複雑に関わり合いながら、一本のワインの状態を形づくっています。
■ 瓶詰めをしたら、ワインは完成なのでしょうか。
私は、ここにもナチュラルワインの面白さがあると思っています。
ワインは瓶詰めされた瞬間に、すべての変化が止まるわけではありません。
瓶の中でも、さまざまな化学反応が続いています。
そして、無濾過のワインでは、生きた酵母や微生物が残っていることもあります。
もし発酵可能な糖分が残っていて、酵母が活動できる条件が整えば、瓶内で再び発酵が進む可能性があります。
それによって炭酸ガスが生まれたり、澱が増えたり、香味が変化したりすることもあります。
もちろん、意図しない再発酵は品質上の問題になり、場合によっては瓶内の圧力が高まる危険もあります。
ですから、無濾過であることと、ワインが安定していることは、分けて考えなければなりません。
また、瓶内で微生物が生きているからといって、必ずしもワインが変化し続けるわけではありません。
アルコール度数やpH、栄養分、残糖、温度、亜硫酸の状態など、さまざまな条件が関係しています。
同じ無濾過のワインでも、微生物学的に安定したものもあれば、注意深い温度管理が必要なものもあるのです。
そして、ここにも生産者の選択があります。
どこまで澱を残すのか。
どこまで微生物の活動を許容するのか。
瓶詰め前に何を確認するのか。
必要であれば、どのような方法で安定性を確保するのか。
その判断によって、瓶詰め後のワインの姿も変わってきます。
■ 澱は、取り除くべきものなのでしょうか。
ここまでお話しすると、澱はワインにとって良いものなのか、それとも取り除くべきものなのか、という疑問が生まれるかもしれません。
けれど、私はここでも、どちらか一方を正解にしたくありません。
澱を取り除くことで、ワインの透明度や安定性が高まる場合があります。
一方で、澱との接触によって生まれる質感や複雑さを大切にする生産者もいます。
濾過によって微生物を取り除き、瓶内での予期しない変化を抑えることもできます。
ただし、濾過の方法や程度によっては、ワインの質感や香味に影響を与える可能性もあります。
何を残し、何を取り除くのか。
その判断は、単に透明なワインを造りたいか、濁ったワインを造りたいかという話ではありません。
自分が育てた葡萄から、どのようなワインを生み出したいのか。
そして、そのワインをどのような状態で飲み手へ届けたいのか。
そうした考え方が、濾過をするかしないかという選択にも表れているのだと思います。
私は、ノンフィルターのワインの瓶底に沈む、あの白い澱を見るたびに考えます。
この一本は、どのような葡萄から生まれ、どのような発酵を経て、ここに辿り着いたのだろう。
造り手は、なぜこの澱を残すことを選んだのだろう。
もちろん、澱があること自体が品質の証明になるわけではありません。
無濾過だから優れているわけでも、濾過をしているから劣っているわけでもありません。
けれど、普段は見過ごしてしまいそうな瓶の底の小さな世界にも、微生物の働きと、それを見守り、ときに制御してきた人間の営みがあるのです。
ワインの透明度だけでは、その一本の奥行きは測れない。
そして、"濁ったワインが好き"というファンも居ますからね。
