前回のコラムでは、「ナチュール」という言葉を入り口に、一本のワインの向こう側にいる人々の想いについてお話ししました。
今回はもう少し踏み込んで、ナチュラルワインを語るうえで避けては通れない「亜硫酸」と「酵母」、そして「澱」についてお話ししたいと思います。
ただ、その前に一つお伝えしておきたいことがあります。
生産者が100人いれば、100通りの考え方があります。
畑での仕事も、カーヴ(醸造所)での仕事も、何を大切にし、何を選び、何を選ばないのか。
それぞれの生産者には、それぞれの哲学があります。
ですから、これからお話しすることが、すべてのワインに当てはまるわけでも、何か一つの正解を示すものでもありません。
私自身、これまで多くの生産者やインポーターの方々とお話しするなかで、何度も自分の考えを見直してきました。
そして、今の私が思うのは、
すべては選択である。
ということです。
■ 畑での選択と、カーヴでの選択。
まず、ナチュラルワインについて考えるとき、私は畑での仕事とカーヴでの仕事を分けて考えることが大切だと思っています。
畑では、葡萄の樹が根を張る土壌があり、そこには無数の微生物や昆虫、植物たちが共存しています。
その環境に対して、人間がどこまで介入するのか。
除草剤を使うのか。
化学肥料を使うのか。
土を耕すのか、耕さないのか。
下草を残すのか、取り除くのか。
こうした選択は、単に葡萄の収量や品質だけではなく、その土地の生態系にも関わってきます。
私は、土壌の生態系に大きな負荷を与えるような除草剤や化学肥料には、できる限り頼るべきではないと考えています。
もちろん、化学肥料と除草剤では作用も環境への影響も異なりますし、すべてを同じものとして語ることはできません。
ただ、土壌を単なる葡萄の生産装置として扱うのではなく、一つの生きた環境として考えたいのです。
一方で、葉や葡萄に対する病害対策は、もう少し複雑です。
例えば、ボルドー液。
硫酸銅と石灰を主成分とするこの殺菌剤は、有機栽培でも一定の条件下で使用が認められています。
しかし、銅は土壌に蓄積する可能性もあり、決して環境への影響がゼロというわけではありません。
それでも、湿度が高く、病害の発生しやすい年には、葡萄を守るために必要だと判断する生産者もいます。
では、何も散布しないことが、必ずしも最善なのでしょうか。
私は、そう簡単には言い切れないと思っています。
気候も土壌も、葡萄の品種も、生産者を取り巻く環境も違うのですから。
近年は気候変動の影響もあり、これまでの経験だけでは対応しきれない年も増えていると聞きます。
そんななかで、何を使い、何を使わないのか。
そこには、単なる栽培技術では説明できない、生産者自身の価値観があるのだと思います。
■ なぜ、自然な栽培へと向かったのか。
私がこれまで出会った生産者のなかには、父親や祖父の世代が農薬を多く使用していたこと、そして家族が病気になったり、亡くなったりした経験をきっかけに、栽培方法を見直したと話してくれた方が何人もいました。
特に、戦後から1970年代にかけて農薬の使用が広がっていった時代を経験した家族の話は、今でも印象に残っています。
もちろん、個々の病気と農薬の因果関係を、私が断定することはできません。
それでも、家族の健康や、自分たちが暮らす土地の未来について考えた結果、ビオロジックやビオディナミへと転換した生産者がいることは事実です。
それは、単なる流行ではありません。
自分の身体や家族、そして次の世代へ何を残したいのか。
そうした切実な思いから生まれた選択でもあるのです。
日本でも、農家の方が自家消費用と出荷用の畑を分け、栽培方法を変えているという話を耳にすることがあります。
もちろん、すべての農家がそうしているわけではありません。
ただ、私たちが日常的に口にしているものが、どのような考え方で育てられているのか。
もう少し関心を持ってもよいのではないでしょうか。
日本では、除草剤のテレビCMを目にすることも珍しくありません。
その光景を当たり前として受け止めている社会について、私は時々考えさせられます。
便利さや効率を求めることと、自然環境や健康への影響を考えること。
その両方を、もっと丁寧に議論する必要があるのではないかと思っています。
■ では、カーヴの中では何が起きているのでしょうか。
ここからは、葡萄が収穫されたあとのお話です。
葡萄の果皮や醸造環境には、さまざまな酵母や微生物が存在しています。
葡萄に含まれる糖分を酵母がアルコールと二酸化炭素へと変えていく。
これがアルコール発酵です。
ただし、発酵に関わる酵母は一種類ではありません。
発酵の初期には、さまざまな非サッカロマイセス酵母が活動し、その後、アルコールへの耐性が比較的高いサッカロマイセス・セレビシエなどが発酵の中心を担うことが多くあります。
それぞれの酵母が、ワインの香りや味わいの形成に関わっています。
そして、ここで登場するのが「亜硫酸」です。
亜硫酸は、ワインの酸化を抑えたり、微生物の活動を制御したりするために、古くから利用されてきました。
ただし、亜硫酸に対する耐性は、酵母や微生物の種類によって異なります。
つまり、亜硫酸をどの段階で、どれくらい添加するかによって、ワインの中で活動する微生物の構成や発酵の進み方が変わる可能性があるのです。
だからこそ、亜硫酸の添加は、単なる保存のための作業ではありません。
醸造における重要な選択の一つでもあります。
■ ノンフィルターワインの、あの白い澱。
さて、ここで今回のもう一つのテーマである「澱」についてお話ししたいと思います。
ノンフィルターのワインを扱っていると、瓶の底に白く濁った澱が沈んでいたり、瓶を動かした瞬間に、ふわりと舞い上がったりすることがあります。
初めて見た方は、驚くかもしれません。
「これは何ですか?」
と、お客様から尋ねられることもあります。
ワインの澱には、発酵を終えた酵母の細胞やその残骸、酒石酸塩、タンパク質、多糖類など、さまざまな成分が含まれています。
また、無濾過のワインでは、生きた酵母や微生物が残っている場合もあります。
ただし、澱があるからといって、必ずしも生きた酵母が活動しているわけではありません。
そして、ここで一つ誤解されやすいことがあります。
白く見える澱そのものが、亜硫酸の塊というわけではありません。
ワインに添加された亜硫酸は、主に溶存した状態で存在し、一部はワイン中のほかの成分と結合しています。
ですから、目に見える白い澱を「亜硫酸が固まったもの」と説明することは、正確ではありません。
しかし、亜硫酸と澱が無関係ということでもありません。
亜硫酸は酵母や微生物の活動に影響を与えますし、澱に含まれる酵母由来の成分が、ワインの酸化還元状態や香味の変化に関わることもあります。
また、澱と接触させながら熟成させることで、ワインの口当たりや複雑さが変化することもあります。
つまり、あの瓶の底に見えるものは、単なる沈殿物ではなく、葡萄がワインへと変わっていく過程で生まれたものなのです。
私は、あの白く濁った澱を見るたびに、ワインが単なる工業製品ではないことを感じます。
もちろん、澱が多いから良いワインというわけでも、少ないから悪いワインというわけでもありません。
大切なのは、その状態がどのような醸造過程から生まれたのかを知ることだと思います。
■ 亜硫酸を入れないことが、正義なのでしょうか。
ナチュラルワインの世界では、長い間、亜硫酸の添加についてさまざまな議論が交わされてきました。
私自身、亜硫酸を一切添加しない、いわゆる「ゼロゼロ」のワインに強く惹かれてきました。
人為的な介入をできる限り減らし、葡萄や土地の持つものを、そのまま瓶の中へ残そうとする姿勢。
そこには、言葉では説明しきれない魅力があります。
しかし、以前は亜硫酸を一切添加していなかった生産者が、近年、瓶詰め時にごく少量を添加するようになったという話も耳にします。
なぜなのでしょうか。
理由は一つではありません。
気候変動によって、健全な葡萄を収穫することが難しい年もあります。
輸送や保管の過程で、ワインが受ける温度変化や酸素の影響を考慮する必要もあります。
また、長期間の熟成を待たず、比較的若いうちにワインを楽しむ飲み手の存在も無視できません。
そして、飲み手が求めるワインのスタイルも、時代とともに変わっていきます。
近年、ナチュラルワインの世界でも、より澄んだ香味や安定した品質を求める声があるように感じます。
ただし、こうした傾向がすべての産地や生産者に当てはまるわけではありません。
ここで考えたいのは、亜硫酸を添加することが、必ずしも自然なワイン造りを諦めることではない、ということです。
例えば、畑では徹底して自然環境を尊重し、醸造でも余計な介入を避けながら、最後の瓶詰め時にだけ少量の亜硫酸を加える。
その生産者は、自分の哲学を捨てたのでしょうか。
私は、そうは思いません。
自分が育てた葡萄から生まれたワインを、できる限り健全な状態で飲み手へ届けたい。
それもまた、一つの誠実な選択なのだと思います。
■ 「きれいなワイン」とは、何なのでしょう。
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。
それは、「きれいなワイン」という言葉です。
ワインの世界では、揮発酸や還元臭、ブレットと呼ばれる微生物由来の香りなどが、しばしば議論の対象になります。
こうした香りのなかには、ごく少量であれば複雑さや個性として受け止められるものもあります。
一方で、強く現れることによって、葡萄や土地が本来持っていた香りを覆い隠してしまう場合もあります。
そして、明確な品質上の欠陥として扱うべき状態もあります。
私は、ナチュラルワインだから多少の不安定さがあって当然だとも、反対に、少しでも特徴的な香りがあれば欠陥だとも思いません。
そのワインが何を表現しようとしているのか。
そして、その香りや味わいが、ワイン全体の調和のなかでどう存在しているのか。
そこに目を向けたいのです。
もちろん、最終的においしいと感じるかどうかは、飲み手の自由です。
生産者の哲学を理解することと、そのワインを好きになることは、必ずしも同じではありません。
だからこそ、ワインは面白いのだと思います。
■ すべては選択である。
亜硫酸を添加すること。
添加しないこと。
濾過をすること。
濾過をしないこと。
畑で何かを使うこと。
使わないこと。
どちらか一方を正義にしてしまえば、もう一方は悪になってしまいます。
けれど、ワイン造りはそんなに単純なものではありません。
同じ生産者であっても、ヴィンテージによって判断を変えることがあります。
同じ畑であっても、毎年同じ葡萄が収穫できるわけではありません。
自然を相手にするということは、毎年違う問いを突きつけられるということでもあるのでしょう。
その問いに対して、何を選ぶのか。
そこに、生産者の経験や知識、そして哲学が表れるのだと思います。
私たち酒屋やインポーターは、畑で葡萄を育てるわけでも、カーヴで醸造をするわけでもありません。
だからこそ、簡単に何かを断定するべきではないと感じています。
ただ、造り手の言葉に耳を傾け、なぜその選択に至ったのかを知ろうとすることはできます。
そして、その背景を飲み手へ伝えることもできます。
前回のコラムでは、一本のワインが人から人へと渡っていく、その想いを「愛」と表現しました。
今回は、その愛をもう少し違う角度から考えてみました。
自然を尊重することと、自然にすべてを委ねることは、必ずしも同じではありません。
何もしないことにも、何かをすることにも、責任が伴います。
大切なのは、何を使ったか、何を使わなかったかという結果だけではなく、なぜその選択をしたのか。
そして、その選択によって生まれた一本を、私たちがどう受け止めるのか。
ナチュラルワインとは、単に添加物の有無によって語り尽くせるものではなく、自然と人間がどのように向き合うのかを問い続ける世界なのかもしれません。
100人の生産者がいれば、100通りの考え方がある。
そして、100人の飲み手がいれば、100通りの感じ方がある。
その違いを否定するのではなく、知ろうとすること。
私は、そこからワインの本当の面白さが始まるのだと思っています。
すべては選択である。
そして、その選択の背景を知ることもまた、私たち自身の選択なのです。
