2026.10.3
愛媛初となるピコルーズ試飲会を開催いたしました。
沢山のご来場、誠に有難う御座いました!
そして、ピコルーズ代表の門脇紀子さん。
本当にお世話になりました。
沢山の知識と経験を兼ね備えた、唯一無二のインポーター様だと私は思っています。
試飲会に来てくださった方は、紀子さんの知識だけではなく、あのエナジーまでしっかり受け取れたのではないでしょうか💘
知ることは、きっと明日に活かしていける。
だから今日は、少し「言葉」について考えてみたいと思います。
紀子さんがペアリング勉強会の中で、
「ナチュールワイン」
という言葉を使っていました。
勉強会が終わったあと、
「“ナチュールワイン”って、わざと言っていますよね?笑
その意味は?」
と聞いてみると、
「みんなが呼びやすいように生まれた言葉なんだから、いいんじゃない?笑」
と。
あ、確かに。
そう思いました。
私たち日本人は、まず分かりやすい「名前」や「型」を入り口にして、そこから少しずつ中身を知り、深めていくことが得意なのかもしれません。
それは決して悪いことではありません。
型を大切にすること。
一つの技術を丁寧に磨くこと。
相手を思いやり、細部にまで心を配ること。
そうした姿勢は、料理や工芸、接客やホスピタリティなど、日本が長い時間をかけて受け継いできた美しさの一つだと私は思っています。
一方で、日本語には外来語や和製英語も多くあります。
海外から入ってきた言葉が、日本で少し姿を変え、いつの間にか本来の意味とは違うニュアンスで広まっていく。
「ナチュール」という言葉にも、少なからずそんな側面があるのかもしれません。
でも、私は思うのです。
言葉を正したからといって、瓶の中のワインの味が変わるわけではありません。
フランスで「Vin Nature」
(=フランス語)。
日本で「ナチュールワイン」(=フランス語と英語を組み合わせた」日本ならではの造語)。
あるいは「ナチュラルワイン」(=英語)。
もちろん言葉の背景を知ることは大切です。
でも、もっと大切なのは、
その言葉の向こう側に何があるのかを知ろうとすること。
なのではないでしょうか。
実際、フランスでも「ヴァン・ナチュール」に対する考え方は一枚岩ではありません。
伝統的なワインを愛する人から、とても強い言葉でその考えを否定されたこともあります。
「ナチュラルだから正しい」
「クラシックだから古い」
そんな単純な話ではないのだと思います。
そもそもワインは、葡萄が持つ糖を酵母がアルコールへと変える、自然の営みから生まれたお酒です。
そこに人間が関わり、より安定した品質で届けるための知恵や技術が長い歴史の中で積み重ねられてきました。
亜硫酸も、その一つです。
だから私は、
「亜硫酸=悪」
「無添加=善」
という話をしたいわけではありません。
むしろ、その二択にしてしまった瞬間に、ナチュラルワインの面白さを随分取りこぼしてしまうような気がしています。
畑で何を選択するのか。
葡萄とどう向き合うのか。
その年の気候をどう受け入れるのか。
醸造の過程で、人間がどこまで手を加えるのか。
そして、その土地、その葡萄、そのヴィンテージにしか存在しないものを、どう瓶の中へ残していくのか。
一本のワインの向こう側には、造り手による無数の選択があります。
そして、その一本を見つけ、
海を越えて日本へ運び、
私たちに伝えてくれるインポーターがいます。
さらに、それをお客様へ手渡す私たちがいる。
そう考えると、一本の瓶は単なる「商品」ではないのだと思います。
「ナチュール」という言葉が流行ったから、ナチュラルワインを知った。
それでもいいじゃないですか。
流行は、時に文化への入り口になります。
大切なのは、そこで終わらないこと。
なぜ、このワインはこういう味がするのだろう。
なぜ、この造り手はこの方法を選んだのだろう。
なぜ、このインポーターはこの一本を日本へ届けようと思ったのだろう。
名前から入り、その背景を知り、やがて一本のワインの向こうにいる「人」に辿り着く。
そんなふうに流行から本質へと潜っていけるのなら、
「ナチュール」という言葉が日本でこれほど親しまれたことにも、ちゃんと意味があるのだと思います。
ナチュラルワインに想いを募らせ、
どうしてもこの一本を届けたいと願う人たちがいる。
造り手からインポーターへ。
インポーターから酒屋へ。
酒屋から飲み手へ。
その想いが、人から人へと渡っていく。
そこには、効率や利益だけでは説明できないものがあります。
私は、それをやっぱり、
愛と呼びたいのです。
